卑屈な私が差し伸べられた手を掴む勇気
マツコ会議を観た。
先週の放送に引き続き孤独についての話に加え今週は差し伸べられた手を掴む勇気を持つことの大事さをお話しされていた。
後者の話について。
私は基本的に自信がないから他人から言われた褒め言葉は素直に受け取れないし、差し伸べられた手を素直に握ることができない。そのくせ何も言ってもらえないは言ってもらえないで私に興味がないのかはたまた諦めているのかという気持ちが湧き出てきて、とにかく卑屈な想いしか浮かばない人間でした。
数年前お仕事でご一緒した方々は何故かとにかく私のことを褒めてくれた(もちろん他の方のことも同じくらいに褒めてた)。最初はその優しい言葉に疑いの目を向けていたし、自分に自信がないから謙遜し続けていた。いやいやそんなことないですよ〜、いやいや私なんて〜、いやいや〜、って。
でもあまりにも毎回会うたびに前向きな言葉をかけ続けてくれるから、信じてもいいのかも知れないと思えるようになった。
自分ができないことやコンプレックスに思っていることに目を向けている間にみんなが自分にポジティブな言葉をかけ続けてくれ、手を差し伸べ続けてくれた。そこに嘘はなかったと思うし、また一緒に仕事しようねと言ってもらえたことが私にとっては一生の財産になった。
その現場中私に前向きな言葉をかけてくれた方々のおかげで自分の可能性に気づけたりもして。もちろん過信してはいけないけれども。
私に好かれても、私に媚びても、なんのメリットもない人たちがこの世の中の大大大大多数を占めているのだから、私を褒めたところで何も出てこないし何も得しないはず。てことはきっとその言葉たちは本物だったと思いたいし、ずっと声をかけ続けてくれて、手を差し伸べ続けてくれた人たちが私の周りにいたことを私は幸せに思うと同時に感謝しかない。
案外と誰にでも手を差し伸べてくれる人は近くにいて、でもそれに気づかなかったり、手を重ねる勇気がなかったりすることが多いと思う。
私はたまたま根気よく声をかけてくれる方たちの元でお仕事させてもらえた運のいい人間だったから良かったけれど、卑屈でいる暇はないし、チャンスを逃すのは勿体ない。
マツコさんや源さんがお話ししていたこととは少しずれるかもしれないけれど、そういう経験をした事があったからすごく響くお話だった。
あと話は逸れるけどちょっと前に言われて刺さった言葉がある。
「謙遜しすぎると失礼だし気持ちよくない」
あなたのことを羨ましいと思っている人もいる。それに褒めたのに過剰に謙遜されると褒めた方も気持ちが良くない。褒められたら素直にありがとうと言えたらそれでいい、と。
そんなん言われたってコンプレックスに思っていることは変わらずコンプレックスなんだからなあと思いつつも、ありがとうと言えないこと、自信ないように見えることってすごく損だと気づいた。
そういうのも大事だね。
(話戻って)
ちゃんと吟味しつつ勇気を持ってエイヤーっと手を掴む勇気を持ちたい。
おわり。
YELLOW DANCER
YELLOW DANCERというアルバムが好きな理由は最初と最後の曲の二曲に大きな理由があります。
全曲好きなんだけど、このアルバムは勝手にストーリー性感じててそこが好きなんですよね。
(わたし自身の性質として)こだわりが強く、予測不能な動きが嫌いなのと、アルバムは意図して曲順を決めているだろうという想い持っているので基本的に収録順にしか聴かないんですけど、あのアルバムを聴いていると収録順に聴いている意味をすごく感じられてよりいいなと思うわけです。
特にいいなと思うのはアルバムをリピートして聴いている時。「Friend Ship」→「時よ」の流れが大好きなんです。
高校時代の話なんですがね。
アルバムを再生するじゃないですか。
最初に「時よ」が流れてくるでしょ?
あー今日も1日が始まるなあ動き出すなあなんて思いながら駅のホームで聴くんですよ。
そんで、最後までアルバムを聴くじゃないですか。
最後「Friend Ship」が流れてくる頃には学校に到着して教室で支度してる頃。
あの曲って別れの曲だからちょっぴりしんみりしながら教室で一人しぼんでしまってたんですけど(笑)、あの曲が終わってまたアルバムリピートで「時よ」が流れてくる時、別れと出逢いを同時に感じられるんですよね。
別れがあってもその後必ず動き出すものだよ、と背中をポンと押されるような気持ちになる。
あの曲の流れって最高じゃないですか。
悲しい気持ちもリセットされる。
しぼんでたはずが気づいたら背筋が伸びてて。
人生で初めて、
「アルバムをリピートすることに意味を感じる」作品に出会いました。
一枚の盤として最初の曲から最後の曲まで意味をもって収録順を決めているものは沢山あれど、最後の曲から最初の曲への流れで感動したものって今までにこれしかなくて。
収録曲はもれなく好き(Soulがきっかけでアルバム買ったしね)なんですけど、特にこの二曲はストーリーが感じられてすごく好きなんですよ。
YELLOW DANCERが好きな理由はそこにあります。
みつけて
家でブーブー文句を言っていたところで誰も私のことを見つけてはくれない。
家で悶々といろんなことを考えていたって何も解決しない。
見つけてもらえるような何かをしなければ。
好きなことを大声で叫んで、やりたいことをたくさんの人に伝えて、やっと見つけてもらえる。人と繋がれる。
好きなことややりたいことを叫んだら力を貸してくれる人が現れて、やりたいことがいくつか叶ったりもした。
声に出すのは大事なことだなと思うし、行動に移すって難しいけどその分たくさんの人が集まってくれるという実感を得られた。
とても貴重な時間だったな。大学時代。
やりたいことが山積み。
ひとつひとつやっていくぞ。
特殊で特別
みなさんにお聞きしたい。
「あなたの星野は、どこから?」
私はYELLOW DANCERからッッッッ!!!
他のアーティストを好きだった時もファンの方にお聞きしてみたい質問事項ではあったけど星野さんのファンのことなら尚更。あなた何足の草鞋履いてんのよって話で。星野さんに落ちるきっかけや要因ってまじで人によって様々すぎてファンの方ひとりひとりに訊いてまわりたいくらい興味がある。
そう、私はYELLOW DANCERから。(二度目)
高校2年生の冬に、星野さんに落ちました。
私は音楽きっかけでした。
(詳細はYELLOW DANCERに人生狂わされた話。 - 線と面参照)
以前から星野源という存在は知っていたけど今までアイドルに近いアーティストを応援してた私にとって正直あまり好きになるタイプのジャンルではなかった(嫌いという意味ではなく単に興味がなかったジャンルだった)し、テレビから「地獄でなぜ悪い」のMVが流れてきたのを観て「このMVを発注する人は絶対に好きにならない」と思っていた。(笑)
すごく不思議だ。まさかこんなことになるなんて。
星野源さんは私にとって特殊で特別な存在。
音楽から入った私はなんとなく俳優・星野源に近づけずにいた。本当になんとなく。
片手間でやってるなぞこれっぽっちも思ったことはなかったし、「どうせ」と馬鹿にしたこともなかったけど、なんとなく近づきづらく触れづらかった。
ていうかそもそも最初は俳優と文筆の活動をしていると知らなかった。
だから逃げ恥で初めて俳優・星野源を観た時にものすごい感動したのを今でも覚えている。
こんなに?こんなにすごい人だったのか!と。
そしてこの間の「MIU404」
はい、完全に俳優・星野源に落ちました。
私は好きな俳優がたくさんいるけど正直そこまでプライベートに興味がない。俳優としての姿が好きだからその人自身のことにあまり触れようと思わない。
だけど星野さんを好きになったきっかけは自分の言葉を使って表現をする音楽からだったから、彼自身の考え方に触れる事が多く、この人が何をインプットしてそれをどういう形でアウトプットするのかに興味があった。
その延長で俳優としての姿を観ることになったから、どういう過程を経てその役を演じているのかにもすごく興味を持つようになった。今まで俳優を好きになってもこんなことはなかった。
だからわたしにとってすごく特殊な存在なんです。
そこで改めて思う。
私は星野さんの考え方が好きなんだと。
彼の仕事の形態も特殊でどれも星野源なんだけどどれも違う人物のような、そんな感じで。
俳優にここまで心奪われたのも初めてだった。
それは星野源が音楽と俳優と文筆を同じ熱量でやっているからこそ。
特殊すぎる好きの形。
そして私にとって特別な存在でもある。
2年前くらいまでずっとね、マリンバをやってたんです。音大出身のプロではなくてアマチュアの先生ではあったんだけど1番続いてた習い事だったんです。
詳細はしょうもないので割愛しますがとある理由で中高時代めちゃくちゃ心を病んでいて、自分の存在意義とか考えまくってしまって、まあマリンバも辞めたくてしかたなかった。
どこにいても「私って果たしてここに必要?」と思うようになって。
でも親からは「マリンバ高かったんだから辞めないでよ」なんて始めた当初からずっと釘を刺されてて辞められなかった。辞めたいと辞められないの狭間で苦しかった。
そんな時に星野さんの「SUN」に出会い、「YELLOW DANCER」を買ったことで人生が変わった。この曲たちが私を掬い上げてくれたことはもちろん、この円盤をきっかけに星野さんのことをもっと知りたいと思うようになり、そこで星野さんもマリンバをやっているよ、ということを知った。
星野さんがマリンバを叩いている姿はかっこよくて楽しそうでとにかくキラキラしてた。
ああそうだ、わたしはマリンバが嫌いなわけじゃなかった。
マリンバの先生と馬が合わないだけで、
学校に居場所はなくて存在意義を感じられないけど、
マリンバは嫌いじゃないなあ。
自分が好きなものを好きな人がやってるなんて、こんなに嬉しいことはないじゃないか。
星野さんが楽しそうに演奏する姿を見て、もう少しだけ頑張ってみようと思えた。単純だけどね。
他のメジャーな楽器に比べたらやってる人も多少は少ないわけだし、そこのところも含めてレアキャラ〜みたいな感じで楽しめたら面白いじゃん。
星野さんがマリンバをやってたおかげで救われた。
結果的に他にやりたい事があっておやすみという名目でフェードアウトしてしまったのだけど未だに家でたまに演奏したりするのは好きだし楽しいと思えるのが救い。
そういう意味で、星野さんは特別な存在なのです。
13年くらいやってた割に楽譜が読めない・音感がない・リズム感がないの三拍子で笑っちゃうほど音楽のセンスないけど。今でも楽しいよ。
本当にたくさんの面でありがとうが尽きない。
おめでとう。
豊かでキラキラ輝いた素敵な一年になりますよう。
日常
大学に本を返さなければならない。
返却日は25日の月曜日。
借りて満足してしまい結局ほとんど読まなかった分厚い三冊の戯曲を明日返さねばなさらない。まあ明日はアルバイトがあるからその前に大学に寄って返せばいいか。
そう思っていた24日深夜。
今一度手元にあるシフト表を見返してみれば私の名前がないではないか。
そうか削られていたのか。
......ああ面倒くさい。
アルバイトがあれば“ついで”だと思え、大学に行くのも億劫ではない。
しかし本を返すためだけに片道一時間かけて大学に行くのは正直ものすごく嫌だ。
面倒だ面倒だ。ああ面倒だ。
でも私は図書館の本を期日までに返さない常習犯で以前ちょっとした脅迫めいたなメールが来たことがあったのでさすがに今回は返さないわけにはいかない。
ということで呑気に朝風呂に入ってから重い腰を上げて大学へ。
「これで全ての本をご返却いただきました」
図書館司書さんからのその言葉を受け軽く頭を下げると、無事に今日中に本を返すことができた達成感から空でも飛べるんじゃないかと思うくらい体が軽くなった。まあ物理的にもリュックがかなり軽くなった。なんせ分厚いの三冊だからね。
そのくらい私は行動を起こすのが苦手だ。
そのくらいというのは、図書館に本を返しただけで空を飛べちゃうほどの達成感を得られるくらいにという意味。
面倒くさいというのもあるけれど、予想外・予定外のスケジュールをこなす事がものすごく苦手だというのが大きい。予定が決まってない日に急に出かけようよなんて声をかけられると半ばパニックになってしまう。
今日は頑張った。
ああそうだ、ついでに。
今、友人と共にちょっとした映像制作をしようという話になっていて各々少しずつ撮影も始めているので大学近くでいいロケーションがあるか所謂ロケハン兼撮影をしてみようかなと思い立った。
さっきも言った通り私が思いつきで行動するのは珍しい。でも今を逃すと撮影できる日があまりないという焦りもあり、ぶらぶら歩いてみた。
いつも通学している道を外れて入り組んだ小道を歩いているとまあまあ大きめの公園にたどり着いた。こんな場所にこんな大きな公園があったのか。犬を放している人がいたり、ベンチでぼんやりしている人がいたり、この街の人の憩いの場なのかもしれないと思った。なんだか自分以外の日常を覗き込んだようで嬉しくも不思議な気持ちになった。
なんとなくいい感じのロケーションに出会え、なんとなくいい感じの風景の撮影をし、駅に向かった。
そういえば大学に4年間通っていて一度も大学があるのと反対側の出口に出た事がないな。
駅に着いてそう思った。
ずっと気になっていた。あっちにはなにがあるのか。この駅にいる時は大抵せかせかと大学に向かうかせかせかとアルバイトに向かうかなので今日ほど時間があることはない。吸い寄せられるように反対側の出口に向かった。
今日は一人。時間もある。
自分が行きたいと思う場所まで進んで、疲れたら帰ってくればいい。ちょっとワクワクした。
方向音痴がすぎるので変に道を曲がったりすると絶対に迷子になる。なんせ今日は一人。独りなのだから、迷子になったら一巻の終わり。とりあえずまっすぐ進んでみよう。散策だ。
まっすぐ進めど進めどゴールはなくて、永遠に道が続く。どこまで歩こうか、どこをゴールにしようか。
大きめの建物を目印にそこを目指すことにした。
でもああいうのってあれだね。看板が大きいから近くに感じるけど実はめちゃくちゃ遠くにあって歩いても歩いても全然たどり着かないの(笑)
こういう経験は今まで何度かした事があるのに学習しないで、あの建物を目指そう!なんて無邪気に思った私が馬鹿だった。全然たどり着かない。どころか少しでも建物に近づいている体感もない。まあ一人だし、心折れてUターンして帰るのもアリか。次の信号まで行ったらかーえろ。
てなわけで引き返してきた。
正確にいえば目標の場所までたどり着かなかったのと、歩いていたのが住宅街でなんにもなかったのと理由は二つなんですがね。
駅に向かう道中
↑(まっすぐ行けば)〇〇駅
←(左に曲がれば)〇〇商店街
という看板が目に入った。
いやもうこんなの、ここまできたら今日の私にゃ好奇心が勝つわけじゃない。
商店街の方に向かった。
どんなお店が立ち並んでいるんだろうと心躍らせながら商店街のアーケードを潜った。
しかしお店というお店が見当たらない。
商店...街......?
お店もあるっちゃあるけど、商店街って感じじゃない。栄えてないというより店がない。
でもなんだか看板に引っ張られて来たらなんもなかったってのも、歩いてみなきゃわからないしこっちに来なきゃわからなかったわけで、ひとつ発見!おもしろ!なんて純粋に思えた自分に驚きつつ、駅に向かう。
今日は一人だ。知り合いは誰もいない。無言で突き進む。今日喋った人といえば朝家にいた祖母と図書館司書の人だけだ。ぼんやりとそんなことを思いながら耳を澄ます。
薬局から聞こえる掃除機をかける音
レストランから聞こえる外国のかっこいい音楽
電車の音
子どもたちの声
ああ、ここに日常が詰まってるんだな
生活が繰り広げられているんだな
人が生きているんだな
たくさんの音を拾いながらそう思った。
いつもは人と会話したりスマホをみたりと一点に集中しすぎて気づかないような、意識がぼんやりしている時にこそ気づける日常に感動した。
重い腰を上げて大学に行き
面倒くさがらず少し歩いた自分を称えたい。
拾い上げた日常を大切に生きたいと思えた今日だった。
日記。
うちで踊ろう
『うちで踊ろう』
2020年、私はこの曲に幾度となく救われた。
緊急事態宣言が出てもなお(というよりも出た故に)アルバイトの日々だった私に楽しみを与えてくれた様々なアイデアが生まれるきっかけの曲であった。
彼の楽曲は安易にみんなでひとつになろうと言わないところがいい。
多分これはずっと前から一貫している彼の考え方なのだ。自分以外は皆他人で、ひとつにはなれない。全てを分かり合うことはできない。ひとつになることを、わかり合うことを、諦めることで進んでいく。
ところがこの『うちで踊ろう』は「ひとつにはなれないけれど“重なり合う”ことはできる」というメッセージを含んでいた。
考え方はこれまでと一貫しているが以前よりも少しだけ人と関わることを諦めないぞという気持ちがあるのが伝わってくる。そこに私は救われた気がする。
ああ、遠い場所にいる人とも関わりを持つことができる。会えないけれど繋がることを諦めなくてもいいんだ。諦めなければならないことが多くある中で少しでも諦めたくないものを手繰っておいていい。そんな気持ちになった。
それと同時に「外側の人をつくらない」という気概を感じる。そういう人をつくらないよう思慮していると思う。というかしているのだ。
いつもどこのコミュニティにも属すことのできない私にとって唯一“内側”にいられるのが彼の楽曲の中なのだ。ここにいていいんだと、ここなら居場所があるのだと、そう思えるのは彼の言葉の中に身を埋めているときだけなのである。
どんな人も包含する言葉選びはそう簡単にできないように思う。
「誰か」対象の1人のことを歌えば、その1人の特徴に当てはまる人にしか届かない。しかし「誰も」のことを歌えば誰もに届く。言葉にすれば当たり前だが、「誰も」すべての人を含む言葉選びをすることには相当の思慮があるはずで、引き出しが多くなければ出てこない発想だろう。
『うちで踊ろう』に限らず、誰もに当てはめようとする言葉選びは『恋』『Family Song』『Ain‘t Nobody Know』など恋愛ソングにも色濃く出ている。
コロナ禍で誰もが苦しい状況に陥ったときこの曲は様々な人に当てはまる言葉を以って、手を差し伸べてくれたのではないか。そう感じる。
全員に届いたかと言ったらそうではないかもしれないにしろ、現にこれほどまでに社会現象を巻き起こし、多くの人の目に触れ、海外にまで伝わったことがそれを物語っている。
あともうひとつ、この曲の好きなところ。
共に生きていこうみたいな気持ちを感じられるところ。「〜しよう」という押し付けがましくない言葉で一緒に生きようね、一緒に生活を送って一緒に乗り越えようねと言ってくれているような言葉たちが、どんな人も今共に同じ世界で生きているんだと思わせてくれる。
そこもまた好きなポイントのひとつ。
私は彼の言葉が好きだ。とにかく好きなのだ。漠然とした表現すぎて何も伝わらないであろうと思うが、なんにせよ好きなのだ。
私の存在もちゃんと含んでくれるから。
そして昨日の紅白歌合戦。
合戦と言いつつ昨年同様ピンクの服を身に纏い姿を現した。それだけでもなんだか涙腺が緩んだ。
ギターの弾き語りがあり、(ファンには)おなじみのイントロが入り、歌に入る。
一番は一緒に楽しもう、重なり合おう、という歌詞だったのに対し二番では今までと変わらない日常を映し出した歌詞だった。
正確には変わってしまった日常の中で変えられない生活の断片のようなものを大事に拾っている感じ。そこを大事にしたいな、みたいなね。日常が変わってしまったのなら、変わってしまったからこそ生活を営むことの大切さを今一度見つめて、心が疲れたときこそ普通を重んじる、みたいなね。ね。
「今何してる? 僕はひとりこの曲を歌っているよ」という歌詞から、自分と相手との間に物理的な距離があるのがわかるけれど日常的に交わすようなこの会話からその距離を埋めてくれる心の距離の近さがうかがえる。
そういった身近さとあたたかさを感じた。
そして「常に嘲り合うよな 僕ら それが人でもうんざりださよなら 変わろう一緒に」
コロナ禍で浮き彫りになった悪意や敵意を向けてくる人々に対してだろう。こういった棘のあるところにもグッときた。みんなの味方でいる面もありつつ悪意を向けてくる人には容赦なく向かっていく側面もあるところに。それも作品として形にしているのがいい。
優しい言葉をかけるだけではなくて、綺麗な言葉で自分の考えに近づけたり相手を正そうとせず、汚い現実に共に向かっていってくれる、寄り添ってくれる、そういった曲に感じる。いいなあ。
私はこういった棘々しさと生々しさも星野源を好きになった理由の一つなのだと今になって気づく。『Same Thing』も『Ain‘t Nobody Know』も『アイデア』もそう。社会が新しい形になっていく中でもまだ昔の形式にこだわる人や自分へ悪意を剥き出している人への棘々しさ。今年これだけの人々に届き、元気付けた楽曲であり、しかも紅白の舞台でこの様な言葉を発したところにグッときた。
そしてそして「僕らずっと独りだと 諦め進もう」
冒頭の方で私はこの曲から誰かと関わることを諦めなくてもいいと思ったと言った。ところが「僕らずっと独りだと 諦め進もう」ときた。だけども私はこの歌詞にもまた心奪われた。結局のところ、会いたい人にはほとんど会えずに時間は過ぎていった。希望を持ちたいが正直なところ叶わないことの方が多かった。
一見ネガティブなようでいてポジティブ。しかも手放しにポジティブというわけでもなくて。前に進むためのひとつの手段というか、仕方がないけれど前に進むためにはそう考えた方が気が楽になるように思える。そういう言葉だった。
気持ちが楽になった。
諦めて前に進もう。
それと同時にこれまでひとりだったひとを掬い上げてくれた。ひとりでもいいじゃない。
そういってくれているような。
救われた。
最高だな。
拡張した分、もっと広くたくさんの人を掬い上げてくれた。
最後に。
みんなで早く愛を重ね合えるように、生きて抱き合えるように。
これからも『うちで踊ろう』を、そして星野源の想いを抱えて生きていこう。そう思えた夜だった。
2021年もきっと好きでい続けるだろう。
点と線と面
一番最初の記事で書いたのですが、私は絶望的に文章を読むのが苦手です。とにかく読み取るのが苦手。
あまり文章に触れてこなかったのが原因だとは思いますが、そうはいっても、それにしても酷いもので。
高校で演劇というものに出会って、高校、大学と実際に触れたりなんかするタイミングもあって感じたのですが、演劇ってマジでたいへん。(語彙力)
将来それを仕事にしようとしているとは思えないぐらいの酷い感想ですが(笑)、文字から情報を読み取って、さらに文字にないところも汲み取らなければならない。はい。めちゃくちゃ当たり前のことを言っています。知ってます。分かっています。
何を言いたいのかと言いますと、文字という平面からお芝居という立体に起こす作業の凄さたるや。
今まで何気なく観ていたお芝居も、そうやって考えるとマジすげー!ってなります。はい、これまた当たり前のこと言ってますね。
わたしはその作業が非常に苦手です。想像力がないのもあると思います。
舞台でいう演出家、映像でいう監督という仕事(合ってる?)、とんでもないなと思う。全容を掴んで、それを立体に起こす。なんたる果てしない作業。
めちゃめちゃに薄っぺらい話になってしまいましたが、いやはや、そういう点でわたしはまだまだまだまだまだだなと思うので、それらのことをできるようにという誓いの意味も込めてこのブログのタイトルを「線と面」という名前にしました。という話に着地したかっただけです。そういう話です。
以上です。なんの身も実りもない話でした。
芝居作ってる方々はマジですげーよっていうのが伝われば幸いです。それでいいです。