文章

私は自分の文章が好きです。

自惚れんなよおばか!と思われるかもしれません。同感です。決して上手いとか面白いとは思いません。語彙力も構成力もない。文章力は皆無です。

 

でも書いていて楽しい、読み返して楽しい。私がそう思えれば良いのかなと思っています。

私が一人でなにかアウトプットするには文章を書くことが一番手軽で楽しいのです。頭の整理ができて、読み返せばあの時こんなこと考えてたんだなあと思い返せるのは貴重です。なんせ私は記憶力がニワトリ以下ですから、三歩歩けば忘れる、は比喩ではなくほぼ毎日起こります。書き留めておかないと忘れてしまうことばかり。私はそれがとても寂しいのです。

 

学校で書く作文はいつもプレッシャーでした。

上手く書かなきゃ、語彙力があると思われるように書かなきゃ、先生に評価される、友人や親にも読まれる、どう思われるかな、とにかく良い文章を、と今思えば要らぬ心配が山積みでした。良い文章に越したことはないですし、語彙力があればそれだっていい。けれども小学生・中学生の自分には限界がありますから、よからぬ心配ばかりしていたところで自分は書いていて楽しくもなければ読み返して楽しくもない。結局当たり障りのない文章しか書けませんでした。

 

大学時代、90分のうち60分ほどを使って400字詰めの原稿用紙にその日に出されたお題に沿った作文を書く授業がありました。その授業は学生時代の作文を書く授業の中で一番楽しかったのです。抽象的なテーマから具体的なテーマまで幅広く色々取り扱って、次週、全員分の作文が綴られた冊子をみんなで見ながら先生の講評を受けるというものでした。とにかくのびのびと書かせてもらった記憶があります。多分この時初めて自分の文章が褒められました。記憶ではこれが最初。随分と遅咲きでした。抽象的なテーマだとそこから発想を飛ばすことで三者三様の作文になるのが面白く、講評の時間もまた楽しみでした。

そして小学校や中学校の時のような形式的なこと以外の“良い文章とはなにか”を教えてもらいました。自分が実践できているとは到底思えないけれども、面白かった!

 

自分で書いていて楽しい、読み返して楽しいならばいいと言いつつもやっぱり評価を受けると嬉しいもので。というか、評価を受けたからこそ書くのも読み返すのも苦ではなくなり、楽しいと感じられるようになったのかなと思います。あの時の先生、ありがとう。

 

レポートには死ぬほど時間がかかるのに、なぜこういう雑記では一瞬にして1000字が埋まるのか。それは謎のままです。というか謎ということにしておきましょう。ね。

 

私と文章、そんな感じで愛が深まりました。

嫌いが好きに変わる瞬間は何事にも変えがたい経験です。20年間生きてきても嫌いや苦手が好きになる瞬間を味わえるって、とても魅力的で素敵なことだと思います。

 

これからも苦手にも果敢に挑んでいくぞ!

そしてこれからも文章楽しく書くぞー!

 

是非これからも読んでいただけると幸いです。

近況報告というよりも生存報告。

生きています。今日も元気に生きています。

 

インスタはストーリーズしか動かしてませんが、相変わらず毎日のようにうるせえ長文を更新してます。

 

わたしの好きなものや好きな人は次々に何かしらの問題を起こしたり糾弾されたりばかりです。2021年7月末もまたそんなことに心を振り回されました。

 

でも好きなんだから仕方がない。

悪いもんは悪い。ファンからみても悪い。そう思う。

けれど好きなんだから、揺るがないんだから仕方がない。これからも好きだし、応援させてくれ。これだから盲目なファンは、なんて言われてしまうかもしれないけれど。

 

わたしが今のわたしであるルーツのような人だからね。

 

行きたいところに行けない、会いたい人にも会えない、触れたいものに触れられない日々。寛容さがなくなってる世界。錆び付いて、暗くて、みんな荒んでて。

その中でも生きる糧を見つけて生きていかなければならない。生きる意味とかわからんけど、それでもなんとか、いやなんとなくでもいいから、自分の生活を続ける意味を考えるんじゃなくて、生活のモチベーションを得るために糧を見つけては、生活を続けようって思う。

 

そんな日々の中で息をしております。

 

今日も、明日も、明後日も、元気です。

知らない

流行りに疎い。

 

アニメもファッションも芸能人も音楽も何もかも疎い。大抵流行が一周して世間の熱が落ち着いた頃にその存在を知る。

 

私は器用ではないから沢山の流行りをネットの波から掬っていく作業が苦手だ。複数のものに少しずつよりも、一つのものに多くの熱量を費やしたい。

 

某アニメが流行った時も、存在は知っているが観たことはないという状況だった。

それを知った知人が私に「えー知らないのー?ありえないよー!そんなの非国民だよ!」と言い放った。

なんだかその言葉の強さに面を食らった。

 

流行っているんだから当然のようにみんな知っているだろう、面白さを共有したいと、多分そう思ったのだろうが、その言葉に少しショックを受けて何も言い返せなかった。

 

そんなこと言われたら興味が湧くどころか意地を張ってしまい余計に知ろうという意欲も努力する気もなくなってしまう。それは私の意固地なところも悪いとは思うが、そう思う人も少なからず居るのではないか。

 

そんな深く考えて発した言葉じゃないのはなんとなくノリでわかる。でも、やっぱり悔しい。

そんな言い方されなければ私も興味を持って調べて楽しんで教えてくれた人と共有するのになあ。

 

まあ、あの、モルカーっていうんですけど、モルカーなんですけど。知ってたけど見たことなかったし結局ムカついて観てません。モルカーに罪はない。あ、今、「モルカー観たことないの〜?え〜〜〜???それは流石にやばい(笑)」って思ったでしょ。そうだよ観たことないよ!

 

その人が、モルカー命!魅力を世界中に知ってもらいたい!!と思ってるわけではなく、流行の中の一部を語ってるということだってわかってる。

 

だから少し話がずれるけど、

 

私も自分がいいと思ったことはいろんな人に魅力を知ってもらいたい、あわよくば好きになってもらえたら嬉しいと思う。でも自分が知っていて相手が知らないことがあったときに相手を貶めるような言い方はしたくない。寧ろ知らないのなら今から沢山いいところを知ってくれよ。今がまっさらな状態であることを羨ましいとすら思うかもしれない。まっさらなキャンバスじゃん最高だな??って。

 

知らないことは罪?

いやいや。みんな何も知らないところからスタートするでしょう。自分はなんでも知ってるみたいな気にはなるなよ。と、ね、思った。自戒も込めて。

 

アニメにしてもファッションにしても芸能人にしても音楽にしても好きになってもらいたいなら相手を思ってプレゼンするような、そういう感覚でいないとと思うし、それと同時に好きなものに恥じない自分でいなきゃいけないと感じる。

 

私ね、星野源さんが好きなんですけど(ここ読んでる人みんなご存知かと)、とりあえず音楽聴いてくれよ。それだけで魅力は伝わるから。いや、丸投げしてるわけじゃないよ。いつかあなたが聴いてくれたらその時に語り合いましょうよ。

 

好きなものの、好きな人のファンとして、恥じない振る舞いをする自分でいたい。

不思議

ラスサビ、転調してると思いきやしてないの面白い。してないとわかればしてないように聴こえるんだけど無意識に聴いてると転調してる感じする。

 

この、転調するように見せかけてしないんかい!ていう曲、他にも知ってる。

 

おかあさんといっしょ ながぐっちゃん‼︎」

で検索して聴いてみてください。

 

「不思議」とは違う意味で転調しないんかいってツッコミたくなります。

 

何度も何度も何度もなんっども聴いてたのに随分経ってから気づいて、はじめて気に留めた時から気持ち悪くて仕方ない(褒めてる)

 

不思議だな〜

 

星野さんのラブソング、どれも曲の毛色は違うし投げかけている対象も違うけど考えは一貫していて、でも一貫していながらリリースを重ねるにつれてアップデートされている感じがとても良いな。

私たちはとんでもない人間を好きになってしまったようだ

みんなひとつにはなれない。

でも手を繋ぐことはできる。

 

殺したい人はいるけど殺すくらいならこれみよがしに幸せになればいい。

 

ポジティブな諦めもある。

 

そりゃあ人間だもの、常に絶好調なわけではない。自分に正直に、今は辛いと叫んでもいい。

 

各方向に敬意を持って、各方向を思いやって、そうやって作品を作っているのが、うまく言葉に出来ないけど、いいなあって。漠然と。

 

星野さんが発するひとつひとつを掬っていくと、星野さんも生きている人間だし、遠い存在であるはずの彼の考え方に自分は生かされていると感じる。

 

私たちはとんでもない人間を好きになってしまった。

 

配慮と言うとなんとなく自分の立場が対象の人より上のような気がしてしまう。

 

けど多分源さんは配慮じゃなくて思いやりを持っている。思いやりは相手と自分が対等なような、そんなニュアンスがある気がする。私の感覚ではね。

 

いつでもいろんな人に思いやりを持っていて、変態的に音楽も芝居も好きな源さん。こんなにいろんなことをやってるのに一切の妥協がなくて常に全力で遊んでいるこの人は一体何者だ。

 

わたしは無理にポジティブになる必要はないんだよっていうメッセージが究極のポジティブだと思う。

 

いつまでも果てしなく、ネガティブを肯定するという究極にポジティブな希望。

 

とんでもねえな。

この“とんでもなさ”にこれからもずっと振り回されていたい。

思い通り

二十歳になって成人式の日に思ったことは

「思ったような大人にはなれていない」

ということだった。

 

子どもの頃は二十歳ってとても大人で、でも若さも持ち合わせていて、キラキラしていて、すげー!かっけー!みたいな印象が漠然とあった。

 

でも実際はそんなキラキラしたものでもなくて、それどころか成人式にも参加しないと心に誓ったくらい地元の同級生には会いたくないという思いが強くて。全然思ってた二十歳と違った。現実を見たときに、想像通りの大人にはなり切れていなかった。

 

でも成人式の日に同時に思ったことは、高校入学後からすごく人に恵まれているということだった。

 

成人式の日、私はお仕事に出向いていた。

その時にお世話になった方が、私が成人式を蹴ってこっち(仕事)に来たのだと思い、二十歳のお祝いにとご飯に連れて行ってくれた。もちろん私は最初から成人式に行く気がなくて、たまたまその日に仕事が被っただけであってわざわざ予定を蹴ったわけではなかった。ちゃんと否定したけど、それでも「一度一緒に呑みたかったんだよ〜!」なんてすごい笑顔で言ってくれて嬉しかった記憶がある。

いい出会いをしたなあと思った。

 

人生の節目である式典に出ないと決めたこと自体が、小学生の頃の私が想像してなかった姿で、私は成人したからといって本当に大人になれるのか、と不安だった。だけど、いろんな人といい出会いをするたびに確実に世界が広がっていて、着実に大人になっていると実感できていたように思う。振り返るとそういう想いでいっぱいの大学生活だった。

 

今だって思い通りに行かないことばっかりさ!

この間だって試験落ちたし!!!あんなに話を聞いてもらって、アドバイス沢山もらったのに不甲斐ない結果を残して、アドバイスくれた人に気を遣わせる結果となったし!!笑

いつだって自分は選ばれる側の人間じゃないんだ!!!!!って思いながら生きてる。

 

でもこの道を選んだのは自分だから。

 

小学生の時は、もう3年後くらいには夢を叶えてると思っていた。そんな甘いものではないのに、おバカだね。

 

3年後どころか今でさえちゃんと叶えた夢で自立しているわけじゃない。

 

でも予想だにしない未来がいい意味でも待っていて、訳わかんないくらい面白い出会いが待っていて、目まぐるしいほど楽しいことも待っていたことが、今になってわかる。

 

だから、思い通りに行かないことばかりだけど、転んだ先に希望があると思ったら、未来が来るのも、歳を取るのもすごく楽しみだし、年を重ねることにポジティブになれている。いま。

 

未来よ、かかってこい